

十一月の夕暮れとは思えないほどのやわらかな光が、彼女の髪を編んだ一本の道筋を照らしていた。彼女は、たゆたう風をはらみながら輝く三つ編みをまとい、刻まれた歳月をほどくのではなく、むしろ結び直すように、その場に佇んでいた。
若さの象徴とされる髪型を、齢七十を越えてもなお選ぶことに、周囲の目を気にする素振りはない。そこには流行や常識に従わない、ひとりの人間としての意志と感性が息づいていた。三つ編みは、固定された価値観をゆるやかにほどき、ふたたび自らの糸を紡ぎ直してきた彼女の生き方そのもののように映る。
その日纏っていた服は、二十代の頃に一枚の布から仕立てたものだった。若き日の手仕事が、半世紀以上を経た現在の身体に寄り添い、過去と現在をひと続きに結びつける。夕陽に染まる布地と、風に揺れる髪は、過去の軽やかさと今の確かさを重ね合わせ、時間が一瞬に折り畳まれたかのような光景をつくり出す。

義父が亡くなってから、義母は言葉にできない喪失感を身に纏っていた。
妻は誕生日を迎えた義母に、二十代の頃に一枚の布から仕立てたこの服を着て撮影することを提案した。
少し心が軽くなったのかもしれない。緑のキュロットを纏った義母は、半世紀前の自分に一瞬だけ袖を通したようだった。



今ではさほど珍しくないが、一昔前の田舎では三つ編みは少女のするものとされ、大人が三つ編みをするのは恥ずかしいとされていた。
それでも義母は三つ編みを選んだ。





娘である妻が義母の服を着て感じたのは、若き頃の義母の身丈だった。
アルバムをめくる義母の手は、写真の中の声を探しているようだった。
仏花、つくり花、ドライフラワー、呼び名は違えど花に変わりはない。
街では、渋滞緩和を目的とした高架道路の工事が止まっていた。木々や草花はその時間を覆っていく。
地球はいま、時速およそ1,374kmで回っているらしい。それを知ったばかりの息子は、どうして人や物が吹き飛ばされないのか、不思議に気づいたようだった。窓辺で持て余した息が、ガラスを白く曇らせていく。この速さで、これから来る友達は無事にたどり着けるのだろうか。
私たちは誰しも、かつて胞衣に包まれ、臍の緒で繋がっていた。聴診器越しに聞こえる小さな鼓動は、その繋がりの続きだった。そして、生まれた瞬間から、誰かの手が差し伸べられている。
二毛作にはそれぞれの考え方がある。
一つの場所で、季節によって二度の収穫を得る。
収穫を終えたのちは、家族や身内だけの糧のために新たに植える。
本作に影響が出ないよう、害虫や害獣にはあらかじめお裾分けをしておく。
義母は、仏壇に添えるためにそれを得ている。
義母が若い頃、懐いていた野良猫がいたらしい。玄関先で三匹の子猫を産み、一匹が家に残り、やがて三匹の母猫になった。
この猫も母猫のように義母に懐いてるが、ノミ取りの時間は苦手らしい。
最初の野良猫は、人を見る目があったのかもしれない。





































































































































